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*廊下に甘い匂いが立ち込めていたので、

俺は首を傾げる。

何と言うか、バターを溶かしている最中のような、菓子屋特有の香りがするのだ。

いつからこの会社はこんな可愛らしいことをするようになったのかと思う。

俺は構わず、廊下の角を曲がった。

その瞬間、いつぞやの時のように、俺の真正面に誰かがぶつかりそうになって急停止する。

 

 

「わうっ!?」

 

 

見れば、これまたいつぞやの金髪少女だった。

さすがの俺も、今度は少女を抱き止めて、彼女の手から浮遊しかけた銀のボウルをキャッチして言った。

 

 

「相変わらずあんたは前を見ないのな、お嬢ちゃん」

 

「えっ!? えっ! あ、この前の社長さん」

 

 

俺の腕の中で、相手はその大きな瞳でこちらを見上げていた。

驚いているようだ。

俺はしげしげと、銀のボウルの中で混ざった、生地と思しき物体を眺め言った。

 

 

「何か作ってんのか?」

 

 

少女はみるみるうちに頬を染めてどもる。

 

 

「え、あ……えっと、まあ」

 

 

俺は悪戯に微笑んで追求した。

 

 

「そういや、もうすぐバレンタインだな」

 

 

相手は見事に跳び上がった。

 

 

「あっ、あっ、あの! しゃ社長さん! 皆にはこのこと…」

 

「リヴォルトだ」

 

 

訂正すると、少女は「へ?」と間抜けな声を漏らす。

俺はボウルを少女に返しながら言った。

 

 

「リヴォルト。俺の名前だ。社長さん、ってのは何だかくすぐったいから」

 

 

少女は目をぱちくりとした。

しばしの沈黙の後、少女の桜色の唇から声が漏れる。

 

 

「リヴォルト、さん」

 

 

名前を呼ばれた瞬間、どきりとした。

思えば、ずっと少女の肩に手を添えていた。

その手が急に熱を帯びたような気がして、反射的にぱっと手を離す。

少女はそんな俺の対応には気づかないのか、ボウルを抱き締めたまま、あわあわした。

 

 

「リヴォルトさんっ、私がお菓子を作っていたこと、内緒にしてくれませんか!? 如何しても、誰にも知られたくないんです!」

 

 

必死に訴える彼女の目の純粋さに、俺は引き攣った笑みを浮かべた。

こんなピュアっ子を直視したら、火傷するに決まってる。

 

 

「ど、如何してだい、お嬢ちゃん?」

 

 

逸らし目に聞けば、少女はかああと頬を赤らめて俯いた。

そのまま、ごにょごにょと彼女は言う。

 

 

「だって……は…恥ずかしいじゃないですか…」

 

 

ぐは。

俺は内心叫ぶ。

 

何だこの可愛い生き物!

 

心臓辺りを押さえて喘ぎながら、俺は何とか声を絞り出した。

 

 

「わ、かった。お嬢ちゃんが菓子を作ってたことは秘密な」

 

 

無論、こんだけ甘い匂いが立ち込めていれば速攻でバレるだろうが、麻桐やイーヴィルのことだ、わざわざこの少女の気持ちを踏み躙ることはしねぇだろ。

ぱあっと少女は顔を輝かせた。

 

 

「ありがとうございますーっ!」

 

 

ふにゃりと笑う相手に、俺は「ただし」と指を立てる。

そう、今日の目的はこれなのだ。

首を傾げる少女に、手に持っていた白い箱を微かに振ってみせた。

 

 

「条件がふたつ。ひとつ、その菓子を作り終わったら味見させてくれないか。ふたつ」

 

 

一緒にお茶でもしよう

(この前駄目にしちまったチーズケーキ、2個買ってきたから)

(え、そんな気になさってたんですかぁ? でもでも嬉しいです! 今、部屋を片付けてお茶の用意をしますねっ!)

((……名前聞けそうだな、この娘の))

 

 

 

バレンタイン前夜祭のお話。