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*すれ違う人間に

どきりとして、俺は頭を振った。

 

 

(アメリカは金髪が多過ぎる…)

 

 

視界の隅に金色がちらつくたびに反応してしまう俺は、きっと末期なんだと思う。

まさか4日目でこんなにも気になるなんて。

 

会いたい、だなんて。

 

アメリカで過ごす日々は、まるで何かの栄養でも欠落しているかのように、何処と無く体調が優れなかった。

 

 

(……長く居過ぎたんだ)

 

 

あまりに馴染み過ぎてしまった罰のような気がした。

人とは貪欲な生き物だ。

声が聞けるだけで満足だった筈なのに、いつの間にか目視することを望んでいる。

きっと目視したら、触れることを切望するのだろう。

そんな強欲さにつけ込んだ仕事が、俺達なのだけれど。

 

煙草を踏み消して、俺は歩き出した。

近くの売店で新聞を買って片手読みしながら、ブティックの角を曲がる。

あ、株がまた変動してやがる……。

 

 

「っきゃ」

 

 

曲がった途端、早足で前から歩いてきた女ともろにぶつかった。

俺は俺で新聞を読みながら歩いていたし、女は女で周りを気にするようにきょろきょろしながら歩いていたので、当たり前と言えば当たり前だった。

女が尻餅をついた拍子にサングラスが音を立てて落ちたので、そちらに目をやった。

 

 

「っと、悪ィ…」

 

 

俺の声は尻すぼみになって消えた。

怪訝そうに俺を見上げる女は、大きな薄青い瞳をしていた。

俺の手から新聞が滑り落ちる。

 

 

「ラビ…?」

 

 

いやいや落ち着け。

そんな筈はない。

ラビエールは黒髪ではないし、そもそももっと童顔だ。

しかしどんなに気持ちを鎮めても、その女からラビエールの面影が消えてくれない。

女は、ラビ本人と見まごうばかりの瓜ふたつだった。

血縁者、という言葉が頭をかすめた途端、ひとつの名前が弾けた。

 

 

(…キリカ・ホワ、イト……!)

 

 

俺の表情の変化を感じ取ったのか、黒髪の女の顔がさっと青褪めた。

白いスプリングコートの袖が勢い良く伸びて、女の綺麗な手が俺の口を塞ぐ。

 

 

「騒がないで! お願い!」

 

「っ…」

 

 

声までそっくりで、俺の思考は停止した。

抵抗することすら思いつかず、呆然と女の大きな薄青い瞳を見つめていると、女は口を開いた。

 

 

「わたくしが誰だか、知っていますね?」

 

 

桜色の唇から漏れる鈴のような声に、俺は唯、頷くしかない。

女優キリカ・ホワイト。

見間違いようがないのは、こいつが有名人だからではなく、あまりにラビエールと酷似しているからだ。

きっとあいつが大人になったら、こうなるのだと思う。

キリカは眉尻を下げて囁いた。

 

 

「ねぇ、ぼうや。大声を出さないでくださいね? 報道者に、わたくしが楽屋を抜け出したこと、知られたくないの」

 

 

俺は女の手を静かに掴んで、口から離しながら溜め息をついた。

 

 

「別に叫びやしねぇよ、安心しろ。女優に興味はねぇ」

 

 

言ってやれば、キリカは意外そうに俺をまじまじと見た後、可笑しそうにころころ笑い出した。

 

 

「それは良かった。……でも、おかしなぼうやだこと。わたくしを見てあんな顔するんだもの、てっきり大声を出されるかと思いましたわ」

 

 

俺はどぎまぎと目を泳がせて、女の手を放す。

このシンクロニシティに、胃が浮くような奇妙さを覚えた。

 

 

「俺はぼうやじゃねえ。もう22だぞ?」

 

「あら、やっぱりぼうやじゃない。わたくしと11違うんですもの」

 

「あ? 嘘だろ……てめぇ、33だってのか? 全ッ然見えねえ……」

 

 

女の言葉に絶句した。

ちょっと待て、じゃあラビエールは16の時の子だという計算になる。

幾ら何でも若過ぎんだろオイ。

 

女はにっこりした。

 

 

「褒め上手ね、ぼうや。わたくし、そんなに若く見えますか? ……だからさっき、驚いた顔をしていたの?」

 

 

心底不思議そうにそう聞かれ、思わず素直に口を開いていた。

それはきっとこいつが、あいつに似ていたからなのだろう。

 

 

「否、俺の知り合いによく似ていたから…」

 

 

女は片眉を上げ、「ふうん?」と首を傾けた。

 

 

「わたくしキリカ・セレストとよく似ている人間がいるとは……世界は狭いものですね」

 

 

どくどくと、心臓が肋骨を打った。

俺は。

 

 

(俺は一体、何を聞こうとしている……?)

 

 

胸に湧く衝動的な疑問は、まるで知恵の実のようだった。

触れてはいけない。

その強欲さが、人間を楽園から地上へ叩き堕としたというのに。

俺は乾いた唇を舐め、浅い呼吸を繰り返した。

 

それでも、手を伸ばさずにはいられない。

 

俺の口から声が漏れた。

 

 

「……てめぇ、子供いるか? 娘、とかよ」

 

 

キリカは、俺の瞳をじぃっと見つめた。

 

それだけで、動けなくなった。

 

まるで魔法だ。

あるいは、呪いか。

喉がひゅっと鳴る。

息ができない。

相手の薄青い瞳の中で、急速に瞳孔が開いていくのが見えた。

舐めるように、抉るように、女は俺を見つめる。

その目が、俺を圧死させようとしていた。

 

 

 

「いません」

 

 

キリカはにっこりと笑って、空を仰いだ。

女の目から解放された途端、一気に冷や汗が噴き出した。

無意識に落とした視線の先で、自分の手ががくがくと震えているのがわかる。

目眩。

立ち眩みにも似た感覚。

今にも、吐いてしまいそうだ。

俺が酸素を貪る中、キリカはやはり静かに微笑んだまま繰り返した。

 

 

「わたくしに子供はいませんわ。夫は昔、亡くなりまして……今は唯の未亡人です。ご存知なくて?」

 

 

俺は自身の喉元を押さえたまま、キリカを上目で睨む。

 

 

「……そうか」

 

 

短く言い、俺は新聞を拾い上げた。

こんなにもきっぱりと否定されるとは思わなかった。

こんなにもあっさりと言い切られるとは思わなかった。

 

母親がこんなに娘を拒絶するとは、思わなかった。

 

胸を突く嫌悪感がこの場から逃げ出したい気持ちと相まって、俺は早足で女の脇をすり抜けた。

が、女の手が俺を留める。

 

 

「ぼうや、これも何かの縁だから、これあげる。…良かったら、観に来てくださいな」

 

 

女の手には、金色のチケットが握られていた。

 

金色。

 

ぎり、と歯を食い縛り、俺は唸った。

 

 

「……要らねぇよ」

 

「要らなかったら、破って捨ててください。気に入りました、貴方のこと。如何してでしょうね」

 

 

困ったように笑って、キリカは俺の手にチケットを押しつけた。

そして一瞬背伸びをし、俺の耳に番号を囁く。

 

 

「わたくしの楽屋番号ですわ。それでは御機嫌よう、ぼうや」

 

 

気紛れな猫のように女優はサングラスをかけ、颯爽と街角に消えていった。

金色のチケットは皮肉にも、政治家御用達の劇場名が刻まれていた。

俺達のターゲットが図らずとも観る舞台。

役者を揃えたのは、どうやら俺が信じない神という存在だったのかもしれない。

 

 

女優は仮面に笑みを貼り付け

(聞くんじゃなかったと、少し後悔した)